つぶやいた
2012年
12月13日、名付け親の菩提寺にて
名付け親の墓参りに行き
その娘の喜代おばあちゃんの
13回忌とされる年の、12月13日
お墓参りに行き、お寺で見たもの
小事なれば大事なり
の私のポリシーに似てたから
「博士の愛した数式」の
ウィリアム-ブレイクの詩を
分かると、分かるんだけどね
真実は多数、人は多数、心は
たくさんの化け物を抱えてる。
命が笑うも、泣くのは魂だけ。
他人を知るのは、他人にならず
己を生きれる者。己を生きずして
他に繋がる命はなし。人として
人、自らを生きれぬ者に
他に添える心とは、存在せず!
私の外見が、私の内部を覆い
私の肉体が、私の顔立ちが
私の声や私の雰囲気が、私の
本当を見えにくくする。私は
化けない。私の内面が多くに
繋がるだけ。その多くに他人が
繋がらないだけ。真実は多数!
現実は多数。多角的であると
破格な数の現実と命が存在し
命が根を生やして露出
小さき、ささやかな事柄にも
丁寧に、丹念に取り組むこと。
物事の本質は、そこからは
見えにくい細部にありて
これが、
私に繋がるか否かの
ヒントなんだよね…。
魂に顕微鏡を持つと
分かること。望遠鏡を
たまに使える器用さも必要!
松岡昌宏の芝居に見えたり
おしらす、
人間は真実を前にすると弱し。
人は、偽りの中にあっては
化け物なり。化け物とは魔にあり
現実とは、神にあり。仏道にありて
人間の社会生活には、お白州が必要。
江戸幕府時代の、裁判所みたいな場所。
裁かれし者が、白い砂地に座らされ
裁きを受ける査定をされる奉行所。
道林禅師の「諸悪莫作 衆善奉行」と
同じなんだよね。悪いことをしては
いけません。それを識る人間が人…。
🖋️ 鈴木霄
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